「喜びって、苦労があってはじめて満たされるもんだな」
仕事を終えた彼が、ふと呟きました。
今思うと、その言葉をほんとうに理解するには、僕はまだ幼過ぎたようです。
気がつけば、ナッパ服姿の彼を描き続けるようになって4年が過ぎていました。
 
 
新幹線ができた年、19歳で国鉄入社。日高の静内でSLの罐焚きから機関士見習、あと一歩で機関士というところで無念のSL廃止。やがてJR発足、観光用にSLの復活が決まり、晴れて機関士の夢が叶ったのは平成元年、45歳の秋でした。
「みんなSLを運転したくてもできないんだから・・・」
それは単に自分が機関士になれたことの喜びよりも、同じように機関士に憧れながら夢絶たれた大勢の鉄道員や、SLの勇姿に胸躍らせる沿線のSLファンや子供達の想いを一身に背負って走るのだという自負と責任感から出た言葉でした。

喜びや感謝の想いは声高に語っても、”苦労”の部分は黙って胸の中に仕舞っておく人でした。
きっと、相当負けず嫌いな人なんでしょうね。
”幸運に恵まれた”と人は言いますが、実は運を引き寄せたのは彼自身の努力に他ならないのです。
お客さんには決して見せることはなくても、ふたりきりになれば垣間見える素顔の部分。
明日からの鉄道人生すら見えない苦悩の日々も、悔し涙もありました。
その人柄と愛想の良さから度々マスコミにも紹介されるようになった彼を、中には嫉妬半分で見る人がいなかったとは言えませんが、そんな連中の心無い声も「妬むよりは妬まれた方がいいよな」と笑って聞き流していました。
語り尽くせない全ての想いをひとりで抱えたまま、最後まで”憧れの機関士さん”であり続けた彼は最高のエンターティナーでした。
 
平成15年12月24日。”SLクリスマスin小樽号”。
いよいよ最後の乗務です。
どこで聞きつけたのか、彼の最後の勇姿を見届けようと、札幌駅4番ホームには溢れんばかりのSLファン、同じ釜の飯を食ったJR社員たちが詰め掛けていました。
感極まって涙ぐむSLファンに「元気出せよ!」と笑顔で声を掛けていた彼、そんな様子を遠巻きに眺めながら、彼らしい、本当に佳いラストランになったなぁと、なぜか淋しさよりも嬉しい気持ちで一杯になりました。
機関車を降りて立場は変わっても、きっと彼は案外身近なところで機関車を見守り続けてくれているような気がしています。
またいつか、この機関車の前で出逢えることを信じて。
ありがとうございました・・・SL機関士、山口憲二さん。


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