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作者紹介
西尾 誠

鹿児島県生まれ。1998年からパワードパラグライダーのインストラクターの傍ら空撮をはじめ、北海道各地の河川、海岸線、建築物などを撮影している。最近は特に空撮サーフフォトグラファの第一人者として新境地を開こうとしている。


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 第15話:冬の終わり

 先日、実家の鹿児島に帰郷した。向こうはこっちの初夏の陽気ですっかり体調を崩してしまい、温泉療養の毎日だったがやはり故郷の水は優しいなと感じた一週間だった。温泉に浸りながら北海道開拓当時、温暖な皮下脂肪の少ない鹿児島人が果たして、極寒のこの地でどのような活躍をしたのかどうかが気になって調べてみた。



明治元年、政府が北海道の開拓を諸藩に投げかけたところ、鹿児島は拒否をしたそうで、明治2年には強制分領という形で十勝と日高5郡の開拓を強制され、7,300戸余り、4万人近い人たちが北海道に移住し、7万5千ヘクタールの原野を開拓したという記録にあるが、しかし同年に交通の不便、漁業利益の薄益から分領地を返上したらしいのだ。なんとも情けないことである。この屯田兵開拓の基礎はなんと西郷隆盛が構想し、開拓使長官だった薩摩藩士、黒田清隆が実行したのにもかかわらずである。でもこの負い目があったのがどうかわからないが、実に多くの鹿児島人が北海道の開拓に寄与しているのを知ってとても嬉しくなった。

  政府関係者では「屯田兵の父」と仰がれるほど北海道の守りと開拓に一生をささげた永山武四郎、黒田清隆の樺太放棄構想に反対した永山弥一郎、国後、択捉島をふくむ北海道東部の道路建設に尽力した永山在兼、札幌農学校の開設に尽力し初代校長になった調所広丈、初代根室県令の湯地定基、初代函館県令の時任為基、農商務省北海道事業管理局長の安田貞則等数多くいる。民間人では、幌加内村(現在の幌加内町)で鉄道敷設に活躍した吉利智弘、薩摩藩英国留学生の一人で北海道でのビール製造の礎を築いた村橋広成、北海道の炭鉱産業の発展に寄与した堀基や園田実徳等がいた。
 農商務省の次官であった前田正名は、釧路で製紙業をはじめ、わずか2年で失敗したが、これは、貴重な試みだった。なお、阿寒湖畔にあった前田所有の山林約3,800ヘクタールを基礎に「前田一歩園財団」が設立され、今でも阿寒湖畔の自然を後世に残すことに役立っている。
 1898年(明治31年)にはじまった島津公爵による開墾地は、上富良野町の500ヘクタールと長沼の500ヘクタールにおよび、1936年(昭和11年)に自作農を創設するため、美田が小作人に開放され、富良野町の人たちは、これを旧島津農場と呼び、また島津神社に島津家をまつって今でも感謝しているらしいのだ。
 『カインの末裔』で知られる小説家有島武郎は、父がのこした狩太村(現在のニセコ町)の開墾農場他併せて450ヘクタールの有島農園を1922年(大正11年)に小作人に無償で開放し、理想の農園建設を目指した。加世田市生まれの松山丈之助は、松音知(現在の中頓別町の一地区)に加世田村をつくろうとして、1,800ヘクタールの原野の開墾地に加世田から青年たちを多く呼び寄せ砂金事業で得た収益で学校、神社、鉄道等を建設したのだ。


 このように薩摩人は関ヶ原の戦で負けながらも領地を搾取されることなく400年の長きに渡り島津家が繁栄してきたのは、時代にあわせ自分たちの考えや行動を変えていったからだろう。だから明治維新もしかり、北海道開拓への尽力もしかりだと思う。そしてそれが今の北海道を支える礎になっている事を知って、子孫として誇らしい気持ちでもある。
そんな血であるからこそ、この北海道が好きなのかもしれない。

 

(続)



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