大谷地恋太郎の地方記者日記

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作者紹介
ペンネーム:大谷地恋太郎
日本各地を転々とする覆面記者。
取材中に遭遇した出来事や感じた事を時に優しく、時に厳しくご紹介します。

(以下は大谷地氏とは関係ありません)

佐藤 祐知(1859-1942)
宮城県生まれ。1879年(明治12)函館に渡る。1886年(明治19)に温泉が出た下湯の川村ヘ店舗を移した事をきっかけに鉄道敷設運動を開始。1894年(明治27年)亀函馬車鉄道株式会社を設立、4年後には馬車鉄道湯の川線が開通した。1902年(明治35)湯の川村村会議員に当選。5年後には温泉旅館「芳明館」を開業。また北海道映画会函館支部長にもなった。

■地方記者日記92
 日本ハム明暗
by大谷地恋太郎

 プロ野球の北海道日本ハムファイターズが、シーズン一位になった。球団発足からわずか三シーズン目で、シーズントップになったのだから、北海道への移転と、球団経営の再生が功を奏したのだろう。西部とソフトバンクを抑えて逆転でのトップ。改めて、この欄でおめでとうと言いたい。
 個人的な感想になるが、日本ハムの北海道移転は、大きな賭けだったと思う。プロ野球といえば、巨人しか名前を覚えない道民にとって、巨人以外はプロ野球ではなかったし、選手名をきちんと覚えているファンは少なかったはずだ。
 一因として、やはり新庄の入団効果が絶大だった。たかが、一人の選手と思うなかれ。彼の存在が全国から注目されて、北海道に日本ハムが移転したことを、プロ野球ファンがしっかりと感じ取ったのである。彼のプレー、彼の発言、訳が分からないような本塁打の命名、派手なパフォーマンス等々。たった一人の選手が注目されたことで、北海道に日本ハムあり、日本ハムの中に新庄あり、となったのだ。
 実力的にも、今シーズンはやや不調に陥ったこともあるが、彼に求めた成績は十分にクリアしただろう。トップバッターや六番打者。時にはクリーンアップを任せても、その存在感は大きかった。
 加えて、守備範囲の広さに強肩。投手を何回助けたことか。日本ハムの成功の一因は、新庄を獲得したことにある。私はそう思う。
 もちろん、小笠原、セギノール、稲葉という中心打者に加えて、若い森本や金子の台頭も忘れてはならないし、ダルビッシュ、八木という若い投手の活躍があったのも、一因の一つだ。
 今回の一位通過で、北海道における日本ハムの立場はさらに浸透していくと思われるが、ちょっと悔しい思いをしたことも、忘れてはならない。
 それは、エースの称号を与えられた金村のことだ。トップ争いが続く最終段階の試合で、五回途中で満塁のままマウンドを降りた。降りたのではなく、降ろされた。これに不満を持った本人が監督批判をしたのだ。記者団に囲まれて、連続二桁勝利がなくなったことを質問されて、監督が外国人であることを挙げて、「もう許さない」と断言したのだから、穏やかではない。
 確かに不運なけがで、一時期、マウンドを離れたのが痛かったのだろう。最後の最後で、勝利投手の権利獲得寸前でマウンドを降ろされれば、不満に持つのは当然かもしれない。これが個人成績をデジタル化してまで残すプロ野球と、サッカーの違いだ。成績がすべてのプロ野球にとって、優勝は建前で、個人成績をみんなが重視している証拠なのだ。金村は本音を出したに過ぎない。
 しかし、だ。
 トップ争い(優勝争いではないのが、ややこしいが)をしている時に、自分の成績が台無しになったことを取り上げて、監督批判する投手に、エースの資格はない。質問されても、無理しても笑って、そしてベンチで自軍のプレーに応援すべきだった。
 それがエースと誰もが呼ぶ称号と行動なのだ。
 罰金二百万は当然のことだった。
 トップを勝ち取った日本ハムだが、エース金村の不用意な発言は、来期への亀裂にならなければよいと信じたい。馬鹿なことをしてくれたものだ。

(続き)



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